無料のGyaoで何か観ながらゲーム(生産ですよ?)をすることが多いですこんばんは。
最近では「バベル」を観ました。ながら観のムリな作品だったのでログイン放置しながらになりましたが(それでもログインはしてる)
好みの映画でした。例によって感想とは別のところで感じたことを。
感じた っていうか思い出した ですけども、日本人の聾者であるチエコ。
菊地凛子がやって評価が高かった役ですね。
観ながら思いました。「私は彼女を知っている」
昔夜遊びでちょくちょく見かける聾の女の子がいました。
そこそこ可愛くて小柄でやわらかそうな茶色のふわふわの髪をしたモテそうな感じ。
クラブ(すいませんディスコでした)でよく見かけた。
踊ってるので、聞こえないとは思わなかったけど、聞こえない人だった。
ディスコの音量ってハンパじゃないんですよ。それは振動としてカラダに伝わる。
床も空気も、自分の身体すら振動する。
だから、聴こえなくても静まり返った世界ではないし、リズムに乗れる。
映画の中で、チエコがクラブで疎外感を持つシーンを見て思い出しました。
チエコ視点では静かな世界で人が踊っていて、自分にはわからない。コレは違うな、と思いました。
聴こえなくても踊りに来てるこは結構いるんでございます。
ハンディなんて跳ね除けているかのようで、しかし私にはその実いつもハンディに対して怒りをもっている様に見えた。
そして、彼女も(チエコのように)いつも誰かに受け入れて欲しがっていた。
優しげな顔をして近づく男にはまったく無防備に身体と心を許すのだ。
「あーそいつは><」と思うようなヤツにもコロッと。何度も何度も。
そして傷ついては更に怒りを増していくように見えた。
あまりにも無防備なので、無駄だと思いつつ「やめたほうがいい」とゆっくり口を動かした。
だいたいあんたは誰でもすぐ信用しすぎなんだよ。
(誰とでもやりすぎなんだよ!とはさすがに言えなかった)
その時の彼女の眼。怒りと共に思いがけない言葉が返ってきた。
「私の耳が聴こえないからそういう事を言うんでしょう!」
「意地悪を言うなんてひどい!」
驚いた。と共に、彼女はそういう扱いしか受けてこなかったのだろうという事に愕然とした。
彼女は特別扱いを望んでいた。耳が聴こえないからと家族や周りに優しく扱われてきたのだ。
言われたくないようなことを言う人はひどい人で、それは意地悪な人。
「あなたがどう受け止めようと勝手だけども」わたしは続けた。
友達だったらもっときつく言ってる。本気で心配してればもっとケンカしてでも止めてる。
あなたは耳が聴こえないのだろうけどこうやって同じ場所で遊んでいる。
同じ場所で同じお金を払って遊んでいる以上、私とアナタに違いは無いし特別優しくはしない。
でも友人でもないから口出しするなというならしない。
そしてそれは耳が聴こえようと聴こえまいと、関係ないことだ。
その後は、彼女と私は店で会うとほのかな笑みと視線を交わすようになったけど、それ以上
親しくなることは無かった(漫画じゃないし)
だから今どこでどうしているかは知らない。
日本では、ハンディのある人が皆がんばりやさんで清廉潔白でいい人 みたいな捉え方をしがち。
なぜだ。
彼女だって特別扱いされることによって、耳が聴こえない事を突きつけられて生きているのだ。
なぜそんな事が出来るんだ。それは受け入れている事にはならないんじゃないか。
不便な部分があるならそれを当たり前に補って付き合えばそれでいいんじゃないか。
腫れ物に触るように丁寧に優しく、突き放した付き合いしかしないならそのほうが失礼なんじゃないか。
昔、グラミー賞のプレゼンテンターとしてスティービーワンダーが壇上に出てきたときの事を思い出す。
「さて今年の受賞者は・・・・この瞬間は胸が高鳴るね」
程よい間を持たせて会場を盛り上げる。
封筒を開けて受賞者の名が書かれた紙を取り出す。
「おっと見えないんだったw」
会場が笑う、この笑いに差別はない。